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岸信介(きし・のぶすけ)
1984年 9月25日〜1973年 4月25日(88歳)
1896年11月13日、山口県生まれ。1920年、東京帝国大学法科大学を首席で卒業し、農商務省(のちに農林省と商工省に分かれ、岸は商工省に移る)に入省。1936年、満州へ渡り満州国経営に辣腕を振るう。1939年、日本に帰国、商工次官となる。1940年、第2次近衛文麿内閣で商工大臣での入閣を打診されたが辞退。その後、小林一三商工大臣と衝突し辞職。しかし、1941年10月に発足した東條英機内閣で商工大臣として入閣。その後、太平洋戦争の戦況悪化に伴い『反東條』に転じ、1944年7月に閣内不統一で東條内閣を総辞職に追い込む。
終戦後、東條内閣の閣僚としてA級戦犯容疑者として逮捕されるが、起訴されずに1948年12月に釈放される。1952年4月の講和条約発効後、日本再建連盟を発足。同年10月の衆議院選挙に立候補者を擁立(岸は不出馬)するも惨敗。1953年4月の総選挙に外遊先から自由党公認候補として立候補、当選。1954年4月、石橋湛山・芦田均らと共に新党結成促進協議会を結成。同年11月、自由党を除名されるが、日本民主党の結成に参加し幹事長に就任。同年12月に社会党の協力を得て第5次吉田茂内閣を倒し、第1次鳩山一郎内閣を発足。1955年11月に自由党と民主党が保守合同、自由民主党を結成に参加、幹事長に就任。1956年12月の鳩山総裁の後継総裁公選に立候補するが、石橋・石井光次郎連合に破れる。石橋内閣では外務大臣として入閣。石橋首相が病気に倒れると首相臨時代理に就任。1957年2月、石橋内閣が総辞職すると全閣僚留任、内閣を引き継ぐ形で首相に就任。岸内閣の前半はは勤務評定実施・警察官職務執行法改定(社会党などの反対で廃案)などが大きな問題となり、後半は新日米安全保障条約調印・批准に力を注いだ。結果として新安保条約に関連した一連の混乱の責任をとって、1960年6月23日に総辞職。退陣後は憲法改正運動などを積極的に行うなど精力的に活動。自民党政権にも影響力を残した。
総裁在職:1957年 3月21日〜1960年 7月14日(1212日・衆院選1回・参院選1回・2選)
総理在職:1957年 2月25日〜1960年 7月19日(1241日・衆院選1回・参院選1回・2次)
| 閣僚経験 |
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東條 英機
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商工大臣
国務大臣・軍需次官
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1941年10月18日・就任
1944年 7月22日・交代
1943年10月8日、東條首相が商工相を兼任。国務大臣に閣内異動。同年11月1日、商工省廃止。
1943年11月1日、軍需省設置と共に軍需次官に就任。1944年7月、サイパン決戦を巡り東條首相と岸国務相が対立、岸は辞職要求を拒否。東條内閣は閣内不統一により総辞職。
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外務大臣
内閣総理大臣臨時代理
防衛庁長官
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1956年12月23日・就任
1957年 1月31日・岸信介臨代
1957年 2月25日・交代
岸信介臨代=石橋首相が病気療養の為。
石橋首相の病気療養の為、1957年1月31日に首相臨時代理就任。
組閣時から石橋首相が事務取扱。岸外相の首相臨時代理就任に伴い、岸外相が兼任。その後、小瀧彬が着任。
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第1次
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内閣総理大臣
外務大臣 |
1957年 2月25日・就任
1957年 7月10日・内閣改造
石橋内閣を継承した為、発足当初から外相を引き続き担当。 |
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第1次
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改造
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内閣総理大臣 |
1957年 7月10日・内閣改造
1958年 4月25日・衆院解散
1958年 5月22日・第28回総選挙
1958年 6月12日・交代
衆院解散=話し合い解散。
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第2次
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内閣総理大臣 |
1958年 6月12日・就任
1959年 6月 2日・第5回参院選
1959年 6月18日・内閣改造 |
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第2次
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改造
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内閣総理大臣 |
1959年 6月18日・内閣改造
1960年 6月19日・新安保自動承認
1960年 7月19日・交代 |
| 党三役経験 |
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鳩山 一郎(日本民主党)
(1954年11月〜1955年11月) |
幹事長 |
1954年11月24日・結成。
自由党を再度離党し、改進党・日本自由党と日本民主党を結党、幹事長に就任。1955年11月15日、自由党との合同まで幹事長を担当。
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総裁代行委員
(1955年11月〜1956年 4月) |
幹事長 |
1955年11月15日、自由民主党結党と共に幹事長に就任。
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鳩山 一郎
(1956年 4月〜1956年12月) |
幹事長 |
代行委員時代に引き続いて、鳩山総裁就任から引退まで幹事長を担当。
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岸 信介
(1957年 3月〜1960年 6月)
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総裁 |
1957年2月から内閣総理大臣。3月の自民党大会における総裁公選で当選し、総裁就任。1960年5月19日、新安保条約を衆院で強行採決、同年6月19日、新安保条約自然承認。批准書交換後の23日に総辞職。 |
| 総裁公選 |
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公選
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石橋 湛山
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第1回投票
決選投票
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岸 信介(223)
石橋 湛山(151)
石井光次郎(137)
石橋 湛山(258)
岸 信介(251)
無効( 1)
棄権( 1)
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1956年12月14日。
第3回臨時党大会。
鳩山一郎総裁の後継総裁公選に岸信介(幹事長)・石橋湛山(通産相)・石井光次郎(総務会長)が立候補。
第1回投票では岸が過半数に足りないものの第1位、石橋が第2位となる。上位2名による決選投票では石橋・石井陣営がいわゆる2、3位連合(決選投票の場合、第1回投票で上位になった者に票を集める)を実現し、石橋が岸を逆転。石橋湛山が総裁に就任した。
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公選
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岸 信介
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岸 信介(471)
松村 謙三( 2)
その他2名( 1)
無効( 1)
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1957年3月21日。
第4回党大会。
1957年2月25日、石橋湛山総理が病気辞任。岸信介外相が首班指名を受ける。
同年3月21日、自民党党大会における総裁公選で岸首相が総裁に選出される。
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公選
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岸 信介
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岸 信介(320)
松村 謙三(166)
その他5名( 5)
無効( 5)
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1959年1月24日。
第6回党大会。
警職法問題で岸首相の責任を追及する反主流派の3閣僚(池田勇人国務相・三木武夫経企庁長官・灘尾弘吉文相)らが1958年12月27日に辞任。岸首相は翌年1月9日、『岸→大野伴睦→河野一郎→佐藤榮作』の順で政権をまわすという誓約書を書き主流派の結束を固める。24日の総裁公選には反主流派が松村謙三を立候補させたが、岸総裁が再選された。
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