池田勇人(いけだ・はやと)
  1899年12月 3日〜1965年 8月13日(65歳)

 1899年12月3日、広島県生まれ。1925年、京都大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。1929年、宇都宮税務署長となるも病に倒れる。5年間の闘病生活の間、1931年に大蔵省を退職。病気回復後は日立製作所への就職が決まったが、1934年に大蔵省に復職。税務署長、税務監察局直税局長を経て、本省の主税局に戻る。その後、主税局経理課長、主税局国税課長、東京財務局長を経て、主税局長となり終戦を迎える。
 戦後も主税局長に留まり、1947年2月、第1次吉田茂内閣(石橋湛山蔵相)で事務次官となる。1949年、衆議院議員総選挙で広島県から初当選。当選直後の第3次吉田内閣で蔵相に起用され、第3次内閣の全期間を蔵相として過ごす。第4次内閣では通商産業大臣となるが、中小企業についての失言をめぐり、不信任決議が提出される。与党内の足並みの乱れもありが可決され辞任を余儀なくされた。その後、自由党政調会長として復帰。1954年7月には自由党幹事長に就任。1955年11月、自由民主党の結党に参加。鳩山首相引退後の後継総裁公選では石橋湛山を推し、石橋総裁を実現する。石橋内閣には蔵相として入閣、同内閣を継承した第1次岸信介内閣でも蔵相を担当。1957年7月の内閣改造で一度は内閣を離れるが、1958年6月の第2次岸内閣では無任所の国務相として入閣。1959年12月、警察官職務執行法改正問題で岸首相の責任を追及していた三木武夫経企庁長官・灘尾弘吉文相らと共に辞任。1959年6月の内閣改造では側近の反対を押し切って通産大臣として入閣。1960年7月、岸内閣退陣後の後継総裁公選に立候補し、当選。自民党4代総裁となり、首相に就任。以降、『国民所得倍増計画』を旗印に農業基本法公布、IMF8条国への移行、OECD(経済協力開発機構)加盟、部分的核実験停止条約批准など行う。1964年9月9日、喉頭ガンで国立がんセンターに入院。東京オリンピック閉会式の翌日(
同年10月25日)、辞意を表明。後継総裁は話し合いの後、池田総裁の指名で佐藤榮作が選ばれた。


 総裁在職:1960年 7月14日〜1964年12月 1日(1602日・衆院選2回・参院選1回・3選)
 総理在職:1960年 7月19日〜1964年11月 9日(1575日・衆院選2回・参院選1回・3次)

閣僚経験
 
第3次
吉田  茂
前半後半
  大蔵大臣


         通産大臣
1949年 2月16日・就任
1950年 6月 4日・第2回参院選
1950年 6月28日・内閣改造

1950年2月17日、民主自由党の民主党吸収工作を不満として稲葉平太郎通産相が辞任。池田勇人蔵相が同年4月1日に高瀬荘太郎文相が兼任するまでの間、兼任。
第3次
改造T
大蔵大臣 1950年 6月28日・内閣改造
1951年 7月 4日・内閣改造
第3次
改造U
大蔵大臣 1951年 7月 4日・内閣改造
1951年12月26日・内閣改造
第3次
吉田  茂
前半後半
改造V
大蔵大臣 1951年12月26日・内閣改造
1952年 8月28日・衆院解散
1952年10月 1日・第26回総選挙
1952年10月30日・交代

衆院解散=抜き打ち解散
第4次
  通商産業大臣
 経済審議庁長官
1952年10月30日・就任
1953年 3月14日・衆院解散
1953年 4月19日・第26回総選挙
1953年 4月24日・第3回参院選
1953年 5月21日・交代

衆院解散=バカヤロー解散

1952年11月29日、池田通産相の中小企業についての失言をめぐり、池田通産相不信任決議案が提出される。決議案の採決時に自由党内の『民主化同盟』から25名が欠席。決議案は可決され、池田通産相は辞任。
    大蔵大臣

1956年12月23日・就任
1957年 1月31日・岸信介臨代
1957年 2月25日・交代


岸信介臨代=石橋首相が病気療養の為。

第1次
  大蔵大臣

1957年 2月25日・就任
1957年 7月10日・内閣改造

第2次
  国務大臣

1958年 6月12日・就任
1959年 6月 2日・第5回参院選
1959年 6月18日・内閣改造

警察官職務執行法問題で岸首相の責任を追及していた反主流派3閣僚(池田勇人国務相・三木武夫経企庁長官・灘尾弘吉文相)が1959年12月31日、辞任。

第2次
改造
通商産業大臣 1959年 6月18日・内閣改造
1960年 6月19日・新安保自動承認
1960年 7月19日・交代
第1次
  内閣総理大臣 1960年 7月19日・就任
1960年11月20日・第29回総選挙
1960年12月 8日・交代
第2次
  内閣総理大臣 1960年12月 8日・就任
1961年 7月18日・内閣改造
第2次
改造
内閣総理大臣



      経済企画庁長官
1961年 7月18日・内閣改造
1962年 7月14日・自民党総裁公選
1962年 7月18日・内閣改造

1962年7月6日、藤山愛一郎経企庁長官が自民党総裁公選に立候補の為、辞任。池田首相が事務取扱。
第2次
改造U
内閣総理大臣 1962年 7月18日・内閣改造
1963年 7月18日・内閣改造
第2次
改造V
内閣総理大臣 1963年 7月18日・内閣改造
1963年11月21日・第30回総選挙
1963年12月 9日・交代
第3次
  内閣総理大臣





     北海道開発庁長官
      科学技術庁長官
1963年12月 9日・就任
1964年 7月10日・自民党総裁公選
1964年 7月18日・内閣改造

内閣改造=第2次改造Vの全閣僚が留任。

1964年6月29日、佐藤榮作北開庁長管(兼科技庁長官)が自民党総裁公選立候補の為、辞任。池田首相が事務取扱。
第3次
改造
内閣総理大臣 1964年 7月18日・内閣改造
1964年10月10日・東京五輪開幕
1964年10月25日・辞意表明
1964年11月 9日・交代

辞意表明=病気療養の為、辞意表明。


党三役経験
  吉田  茂(自由党)
(1950年 3月〜1954年12月)
幹事長
政調会長

1950年 3月 1日・結成。

1953年から政調会長、1954年7月に幹事長就任。吉田総裁引退まで幹事長。

池田 勇人
(1960年 7月〜1964年12月)
総裁 1960年7月の自民党大会における総裁公選で当選し、総裁就任。1964年9月に喉頭ガンで国立がんセンターに入院。同年10月、辞意表明。後継総裁に佐藤榮作を推挙。


総裁公選
 
公選
池田 勇人
第1回投票









決選投票

池田 勇人(246)
石井光次郎(196)
藤山愛一郎( 49)
松村 謙三(  5)
大野 伴睦(  1)
佐藤 榮作(  1)

   無効(  5)



池田 勇人(302)
石井光次郎(194)

   無効(  5)

1960年7月14日。
第8回臨時党大会。

岸信介総裁の後継総裁公選に池田勇人・石井光次郎・大野伴睦・藤山愛一郎らが立候補。しかし、投票当日の朝(13日)に大野伴睦が立候補辞退を表明。大野伴睦辞退の新事態を理由に公選を1日繰り延べた。
14日の総裁公選では第1回投票で池田勇人が1位、石井光次郎が2位、藤山愛一郎が3位。上位2名による決選投票でも池田勇人が1位となり、総裁に就任。

公選
池田 勇人
  池田 勇人(391)
佐藤 榮作( 17)

   散票( 20)
   無効( 38)
1962年7月10日。
第11回臨時党大会。

池田勇人総裁の任期満了に伴う総裁公選。
池田勇人総裁が再選。
公選
池田 勇人
  池田 勇人(242)
佐藤 榮作(160)
藤山愛一郎( 72)
灘尾 弘吉(  1)

   無効(  3)
1964年7月10日。
第14回臨時党大会。

池田勇人総裁の任期満了に伴う総裁公選。
総裁三選を狙う池田総裁と佐藤榮作、藤山愛一郎らが立候補。佐藤榮作と藤山愛一郎の間には2位3位連合の約束があった。投票の結果は池田総裁が過半数をわずか5票上回り、第1位。辛勝ではあったが、池田勇人総裁が三選を果たした。
 

This episode in "the historical novels of 100years after".
Copyright © 1999-2007 Tomomi Inaba. All Rights Reserved.